文庫化された『火花』を買う理由
何かになりたい私です。
今は特に憧れる人やモノ、コトは特にないのですが、大学生の頃はありました。ただなんとなくカッコよさそうというだけで、文学青年になりたかったのです。
大学生の頃は、いや高校生くらいからでしょうか、いや、そういえば小学校、幼稚園の頃から本は好きでした。小学校・中学校の頃は図書館で本を借りまくっていましたが、高校生くらいからは小遣いで本を買うようになりました。
大学生になると一人暮らしだしアルバイトもできるしで、どんどん本を買っていくわけです。で、どんな本を買うかというと、純文学。
なんとなく文学青年という感じにあこがれており、ポケットには必ず新潮文庫が入っていました。
よく読んでいたのは太宰治です。特に好きなのは『人間失格』でした。これを読んで「死にたくなった」とか「暗い気持ちになった」とか言う人がいますが、今でもそれが信じられません。文章として、物語として、自分としては非の打ち所がなく、「どうやったらこんな文章がかけるのか」といった感想しか出てこないのです。
大学の部活でも文学好きの先輩がいて、
「私は芥川賞を取る」
「じゃあ、自分は直木賞を取りますよ」
なんて会話をしていたんですが、お互いにそんな方向へはまったく進まず。それでも20代の頃は純文学を主に読んでいました。
なぜかビールの本を出版
しかし、直木賞とはまったく違う方向ではあるものの、40歳を前にして著書を出すことに。
まあ、直木賞の対象でもなく今後もそんな方向へは行かなそうですが、下手の横好きでも単なる憧れでも、続けていればそれに近いところまでは行けるんだということがなんとなくわかりました。
結果、文学青年というものになれたのかどうかはわかりませんが、大学生の頃は今よりはるかに本を読んでいた時期だと思います。今となっては、読書量も激減し、かといって読書量を増やしたところで、もう「青年」にはなれないという現実を突きつけられています。
しかし、この人は文学青年だなあ、と思う人がいるのです。
文庫化された『火花』を買う理由
又吉直樹。
彼もすでに30代後半なので「青年」ではないのかもしれないですが、自分がイメージする「文学青年」に一番近い人物だったりします。その雰囲気も、本に対する愛情も、そして実際に芥川賞を受賞したこともあって、まさに文学青年の中の文学青年。
芥川賞受賞作の『火花』を書店で立ち読みをしてみましたが、芸人が書いた小説という先入観があっても、しっかりと純文学の匂いを感じたのです。
あ、これは読んでみてもいいな、と。
でも、買いませんでした。なぜか買いませんでした。理由もよくわからないのですが、先日文庫化した際には、なぜか書店で無意識に手にとってレジへ向かっていました。
なぜでしょうか。まったく理由がわからないのです。
ですが、それでもいいような気もします。梶井基次郎の『檸檬』でなぜ丸善に檸檬を置いていったのかわからないのと同じように、理由がわからないほうが、なんとなく純文学っぽくないですか。ねえ。